無知の知。と、いわれるやつです。
古代ギリシャの哲学者「ソクラテス:紀元前469年頃~紀元前399年頃」が発祥というか、そのコンセプトの立役者というか。まぁ、そんな感じらしいです。
人間の脳は、思った以上にすごい能力のキャパシティーを備えていると思いますが、それでも、自分というのは1人の枠を超えられないということで、無知の知というのは、非常に重要な考え方だと思っています。
知らないからこそ学び、知らないからこそ、教えてもらう。
自分は知っていると思った時点で、それを知る機会はずいぶんと減ってしまいます。
何をもって知っているのか?どこまで進めば知っていることになるのか?そのあたりも、自分自身で決めることだとは思うのですが。
さて、
私は、Wikipedia「ウィキペディア」は、とても素晴らしいと思っています。
とうとう、夢にまで見た人類の英知の集約が、ここに!という感覚で見守っています。ささやかですが、寄付もしました。
すごくないですか?世界中のそれぞれの専門家が、それぞれの専門分野について説明してくれている情報を、誰もが気軽に利用できる。それも、基本的に無料で。
世界中の有益な情報、後世に残したい情報が満載の百科事典。
「情報によっては偏りがあったり、全員の理解を得られないようなものがあったりする。」という意見もあるかもしれませんが、そんなこと、通常の百科事典でも教科書でもある話ですし、人が制作するのですから、簡単に逃れられるものではありません。
100%正しい情報だけでないと価値がない。というのは、これについてはあてはまらないと思っています。
ただし、情報を定義するのは難しい話です。
なんらかの意味を持つものが情報という考え方もありますが、意味というのも定義するのが難しく、最終的には、主観性というか、生物が関与することが必然とされるかと思います。って、別に情報そのものの話をしたいわけではなく、
ウィキペディアに満載の様々な情報(意味を持つ)も、人がなんらかの形で利用したりできなければ、それだけで有益というわけではない。
ということが言いたいのです。
もっと言うと、
世界中のさまざまな専門家などが提供してくれている情報を、他の世界中のさまざまな人々が、組み合わせたり、変化させたり、足したり引いたりして、なんらかの新しい価値を生み出すことが、ウィキペディアの情報に大きな価値を与えるのだと。
ウィキペディアでなくとも、
未知なものを発見したり、作り上げたりしていくのも、既知と既知とを組み合わせて、未知の領域へ挑むのも、人がするこであり、先人たちの築いた土台にお世話になっている以上、後世のため、さらなる土台を築き上げるのが、現代人の使命だとも言えるのではないでしょうか?
まぁ、ややこしい話になりそうなので、これくらいにしておきますが、
人類共有の知恵袋をみんなで大切にしましょうよ。という感じで思っていただければ幸いです。